神さまは、分けても減らない
旅先で見かけた八幡宮と、家の近所の八幡神社。社号は同じでも、その二社に直接の関係があるとはかぎりません。それでも、さかのぼっていけばどこかで一本につながっています。同じ社号の神社が全国に並ぶのは、本社の祭神の神霊を分けて別の場所に祀る「勧請(かんじょう)」がくり返されてきた結果だからです。
分けられた神霊を分霊(ぶんれい・わけみたま)といいます。神道では、神霊は無限に分けることができ、分霊しても元の神霊に影響はなく、分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされます。分ければ分けるほど薄まる、ということが起きない——この考え方が、同じ神を祀る社が際限なく増えていける前提になっています。
分霊を受けて建てられた社は、分社・分祠・今宮などと呼ばれます。その社名は勧請された神にちなむことが多いため、結果として同じ社号が全国に並ぶことになります。八幡宮も天満宮も稲荷神社も、どの地方へ行っても見かけるのはこの積み重ねによるものです。
なお「勧請」はもともと仏教の言葉で、仏に教えを請い、いつまでも人々を救ってくれるよう願うことを指しました。それが神仏習合のなかで神仏の霊を迎える意味に移り、いまの用法になったとされます。神社の広がりを語る中心の言葉が仏教に由来していることは、このあとの八幡神の歩みとも重なります。
八幡は「宇佐 → 石清水 → 鶴岡」の三段でたどれる
八幡信仰の広がりには、はっきりした形があります。全国の八幡神社は、総本社である宇佐神宮か、宇佐から勧請を受けた石清水八幡宮か、さらに石清水から勧請を受けた鶴岡八幡宮のいずれかから神霊を受けている、と説明されます。
この三段は、単なる系図ではありません。八幡神の性格が変わっていった順序でもあります。宇佐では九州の一地方の神、石清水では都を鎮護する神、鶴岡では武家の都の守護神——移されるたびに新しい役目が与えられ、その役目が次の勧請を呼びました。八幡宮の分布が地図の上に散らばった点ではなく、系譜として読めるのはそのためです。
年代と経緯を並べると、次のようになります。
広がりを押したのは、三つの力
勧請という仕組みがあれば、それだけで社が増えるわけではありません。誰かがその神を必要とし、場所と費用を用意して、はじめて一社が建ちます。八幡神の場合、その担い手は時代ごとに入れ替わりました。
最初に八幡神を必要としたのは国家でした。天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が奈良の大仏を造立する際、宇佐八幡の禰宜尼らが上京し、八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたことが記録されています。八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京しました。このとき東大寺の鎮守として宇佐から勧請されたのが手向山八幡宮です。九州の一地方の神が、国家の事業に招かれた場面でした。
次に効いたのは、寺という受け皿です。天応元年(781年)、朝廷は宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として「八幡大菩薩」の神号を贈りました。神でありながら菩薩の号を持つ神なら、寺の境内に祀っても筋が通ります。これによって全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることになった、とされます。八幡大菩薩そのものについては八幡信仰の系統ページにまとめています。
三つめが武家です。清和源氏は八幡神を氏神として各地に勧請しました。源頼義は河内国壷井に壺井八幡宮を勧請して河内源氏の氏神とし、その子の源義家は石清水八幡宮の社前で元服して「八幡太郎義家」と名乗ります。源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を据えると、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請しました。武家がなぜ八幡神を選んだのかは系統ページの読み物にまとめています。
もうひとつ、数の上で無視できないのが改称と合祀です。信仰の広がりにともなって、もともと明神や天神を祀っていた社が八幡に改称された事例、八幡神を合わせ祀った事例も多くあります。全国の八幡宮のすべてが、宇佐から系譜を引いて新しく建てられた社というわけではありません。
きれいな三段には収まらない
三段の説明はよく整理されていますが、実際の系譜はもう少し入り組んでいます。三段はいわば幹で、そこから外れた枝が早い時期から伸びていました。
ひとつは、総本社をめぐる例外です。筥崎宮の元宮は宇佐神宮ではなく大分八幡宮とされます。大分八幡宮については、宇佐八幡宮の由緒書『八幡宇佐宮御託宣集』に宇佐神宮の本宮であるとも書かれているといい、ただし創建年が合わないため疑わしいともされています。総本社から順に降りてくる整然とした図には、収まりきらない社があります。
もうひとつは、時期の例外です。『吾妻鏡』文治五年の条には、源頼朝が陸奥の鎮守府八幡宮に参詣した様子が記されています。この社は坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に勧請したもので、鎌倉方は、平安京の南西に石清水八幡宮が勧請されるより前に陸奥へ八幡神が勧請されていたことに驚いた、と書かれています。三段目どころか二段目より早く、東北にまで八幡神が渡っていたことになります。
三つめは、地理というより古い層の名残です。宇佐から早い時期に分かれた五所別宮——筑前の大分八幡宮、肥前の千栗八幡宮、肥後の藤崎八幡宮、薩摩の新田神社、大隅の正八幡——はいずれも九州にあり、都でも東国でもない場所に古い信仰圏があったことを示しています。この五社は当サイトにすべて掲載しています。
三段の系譜は八幡信仰の幹をよく表していますが、幹だけを見ていると、九州に残る古い層や、東北へ早くに渡った枝が視野から落ちます。
掲載社では、どこまで辿れているか
勧請元は「その社がどこから来たのか」という由緒の核心ですが、公式サイトにもWikipediaにも書かれていない社が少なくありません。
当サイトは確認できた社にだけ勧請元を記録し、確認できていない社は「要調査」として、勧請によらない独立創建の社とは区別しています。空欄には「まだ調べていない」と「調べた結果、勧請ではなかった」の2通りがあり、これを一緒にすると「分からない」がいつのまにか「無い」に化けてしまうためです。
次に挙げるのは、宇佐神宮・石清水八幡宮から勧請を受けたとマスタに記録している社です。
近所の八幡さまは、どこから来たのか
同じ基準——出典を確認してマスタに記録したもの——でみると、三段目にあたる鶴岡八幡宮から先の勧請は、まだ1件も記録できていません。三段の説明そのものは広く行き渡っていますが、個々の社の勧請元を出典から確かめようとすると、資料の壁にすぐ当たります。
自分の街の八幡宮がどこから勧請されたかは、境内で確かめられることがあります。由緒書きや案内板に勧請元と年代が書かれていれば、それが最初の手がかりです。社号も手がかりになります。八幡宮から分祀された社には「若宮八幡宮」を名乗るものが多く、源氏の武家やその子孫が信仰しました。地名にも痕跡が残っていて、鎌倉の材木座に残る由比若宮は「元八幡」と呼ばれ、鶴岡八幡宮が最初に勧請された場所を伝えています。
勧請元がひとつ分かると、その社の見え方は変わります。近所の神社が、千数百年をかけて枝分かれしてきた系譜のどこかにある一社になるからです。八幡宮の数の多さは、同じ神が各地で必要とされ続けた回数の多さでもある、という読み方ができます。
- 「全国の八幡神社は宇佐・石清水・鶴岡のいずれかから勧請を受けている」は一般的な説明で、個々の社の勧請元には諸説がある場合があります。当サイトは社ごとに出典を確認できたものだけを記録しています。
- 五所別宮の数え方・対象社には資料により異同があります。
- 石清水八幡宮の創建年は、『元亨釋書』などでは貞観元年(859年)、『類聚国史』などでは貞観2年(860年)とされ、資料により異なります。宇佐神宮の示現も571年説・568年説などがあります。
- 社数(約4万4000社/7,817社)は数え方によって大きく変わります。前者は八幡宮を社号でみた数、後者は本社を祭神で分類した集計の値です。
- 大分八幡宮を宇佐神宮の本宮とする記述は宇佐八幡宮の由緒書『八幡宇佐宮御託宣集』に見えるとされますが、創建年が合わないため疑わしいともされています。