鹿児島神宮
鹿児島県霧島市に鎮座する鹿児島神宮は、官幣大社として崇敬を集めてきた神社です。重要文化財に指定された本殿や拝殿は、極彩色や龍の彫刻などの豊かな装飾が特徴で、南九州で格式高い神社として知られています。古くから島津氏の尊崇を受けてきたほか、現在は八幡神を合祀した神社としても広く親しまれています。
基本情報
鹿児島神宮の御祭神
鹿児島神宮の御祭神は彦火火出見尊・誉田別命(通称 応神天皇)・息長帯比売命(通称 神功皇后)・仲哀天皇の4柱です。
系統の標準構成に、この社の御祭神を対応づけています。
誉田別命を中心に、系譜上の血縁を並べたものです。仲哀天皇は系譜上の関係で、上の祭祀構成には含まれません。
八幡信仰の標準的な祭神構成には含まれない御祭神です。
八幡神そのもの。弓矢の神・武運と勝運、出世開運・厄除けの神。大陸の文化を招いた文教・殖産の祖ともされます。
応神天皇の母。三韓征伐から帰還して応神を出産したという伝承から、安産・子育ての神として信仰されます。
誉田別命の親として系譜に伝わります。
ご利益 (出典つき)
アクセス
鹿児島県霧島市隼人町内2496
隼人駅 徒歩約14分(約1.1km・直線距離)
参拝時間 8時30分〜17時
無料駐車場350台
祈祷・授与所
鹿児島神宮の由緒
高千穂宮の跡に — 山幸彦を祀る社
社伝は、創始を遠く神代のこととし、あるいは神武天皇の御代に天津日高彦火火出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと=山幸彦)の宮殿であった高千穂宮を神社としたものと伝えます。和銅元年(708年)に現在地へ遷座し、旧社地には摂社の石體神社(石体宮)が鎮座しています。北西13kmの地点には、彦火火出見尊の御陵とされる高屋山上陵があります。確かな史料での初出は『延喜式神名帳』の「大隅国桑原郡 鹿児嶋神社」で、大社に列しており、日向・大隅・薩摩のいわゆる南九州で唯一の式内大社です。
大隅正八幡宮 — 八幡の根本社という伝え
平安時代、宇佐八幡が九州五所の八幡別宮を勧請したのに伴い、当社にも八幡神が合祀されたとされます。以後「正八幡宮」「大隅正八幡宮」「国分八幡宮」などとも称されました。相殿に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仲姫命の四柱を祀るのはこの合祀によるものです。平安時代後期の『今昔物語集』には、八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと記されています。「正八幡」の名が示すように八幡宮の根本社だという伝えもあり、宇佐との間で正統を争ったという十三塚原の伝承も残ります。
島津氏の崇敬と現在の社殿
建久年間(1190〜1199年)には社領2500余町歩を有し、江戸末期まで千石を保ちました。大永7年(1527年)に兵火で焼失しますが、天文20年(1551年)に後奈良天皇の綸旨を得た島津貴久が日秀上人に再興を命じ、永禄3年(1560年)に新造の社殿へ遷宮しています。現在の社殿は、白蟻の被害を受けた慶長6年(1601年)造営の社殿に代わり、宝暦5年(1755年)に島津重年の寄進で起工され、翌年に重豪の代で竣工したもの。明治7年(1874年)に神宮号を宣下され、明治28年(1895年)に官幣大社へ昇格しました。
奉納された甲冑と、帰ってきた刀
島津氏の崇敬の篤さは、伝わる宝物にも表れています。重要文化財の紺糸威鎧は島津家家老・樺山幸久の奉納、色々威胴丸二領は永禄元年(1558年)に島津貴久が奉納したものです。刀剣のうち二口は第二次世界大戦後の進駐軍による接収で所在が分からなくなっていましたが、「刀 銘相州住秋広 明徳三」はオークションへの出品で発見され、平成15年(2003年)に神社が買い戻しました。「刀 無銘(伝則重)」も、令和4年(2022年)に特徴の一致する刀がオーストラリアで見つかっています。境内の隼人歴史民俗資料館では、こうした社宝のほか隼人町域の考古資料や鈴かけ馬踊りの資料を見ることができます。
見どころ
年中行事 (主なもの)
※ 日程は年によって変わることがあります。参拝の予定を立てる際は公式サイトでご確認ください。
八幡信仰のひろがり — 鹿児島神宮の勧請元は未確認
鹿児島神宮がどの社から御分霊を迎えたのか(勧請元)は、当サイトでは確認できていません。以下は八幡信仰が各地へ広がった代表的なながれで、鹿児島神宮のルーツを示すものではありません。創建の年代と経緯は、このページの「基本情報」と紹介文に記しています。
鹿児島神宮が登場する読み物
本文で鹿児島神宮に触れている特集記事です。
鹿児島神宮のよくある質問
鹿児島神宮はどんな神社ですか?▾
八幡宮なのに主祭神が応神天皇ではないのはなぜですか?▾
「正八幡」とはどういう意味ですか?▾
初午祭とはどんなお祭りですか?▾
- 創始を神代・神武天皇の御代とするのは社伝にもとづく伝承で、確定した年代ではありません。
- 「大隅正八幡宮こそ八幡の根本社」とする伝えは中世の説話にもとづくもので、宇佐神宮を総本宮とする一般的な理解とは異なります。