いづはらはちまんぐうじんじゃ
厳原八幡宮神社
厳原八幡宮神社は、天武天皇6年(677年)に天皇の勅命を受け、清水山の麓に社殿が造営されたことが創建の始まりと伝えられています。かつては下県郡の下津八幡宮として知られ、戦国時代頃からは府中八幡宮とも称されるようになりました。明治時代には一時、式内名神大社である和多都美神社に改称された経緯もあり、1916年には県社に昇格しています。現在は石段を登った先に楼門が設けられ、その奥に拝殿や本殿が鎮座する構造となっています。拝殿の奥に控える本殿の屋根や、楼門に掲げられた「八幡宮神社」という扁額を見ることができます。
祈祷受付
未確認
授与所
未確認
初穂料・御朱印
未確認
アクセス
未確認
基本情報
所在地長崎県対馬市厳原町中村字清水山645-1
創建(伝)天武天皇6年(677年)
旧社格県社
信仰系統八幡信仰
勧請元未確認
創建者未確認
厳原八幡宮神社の御祭神
厳原八幡宮神社の御祭神は誉田別命(通称 応神天皇)・息長帯比売命(通称 神功皇后)・仲哀天皇・武内宿禰・比売大神の5柱です。
祭祀構成 — 八幡信仰の標準
系統の標準構成に、この社の御祭神を対応づけています。
この社の相殿・合祀
系譜(血縁) — 誉田別命の血筋
誉田別命を中心に、系譜上の血縁を並べたものです。仲哀天皇は系譜上の関係で、上の祭祀構成には含まれません。
親
子
主祭神相殿など祭祀構成外(系譜のみ)✓ =この神社の御祭神 / 淡色=この神社では確認なし× 夫婦同一の神とされる
八幡神そのもの。弓矢の神・武運と勝運、出世開運・厄除けの神。大陸の文化を招いた文教・殖産の祖ともされます。
応神天皇の母。三韓征伐から帰還して応神を出産したという伝承から、安産・子育ての神として信仰されます。
誉田別命の親として系譜に伝わります。
八幡信仰の標準的な祭神構成には含まれない御祭神です。
多くは宗像三女神(多岐津姫・市杵嶋姫・多紀理姫)と同一視されます。玉依姫とする社もあり、その正体には諸説があります。
ご利益 (出典つき)
アクセス
所在地
長崎県対馬市厳原町中村字清水山645-1
長崎県対馬市厳原町中村字清水山645-1
最寄駅
未確認
未確認
駐車場
未確認
未確認
八幡信仰のひろがり — 厳原八幡宮神社の勧請元は未確認
厳原八幡宮神社がどの社から御分霊を迎えたのか(勧請元)は、当サイトでは確認できていません。以下は八幡信仰が各地へ広がった代表的なながれで、厳原八幡宮神社のルーツを示すものではありません。創建の年代と経緯は、このページの「基本情報」と紹介文に記しています。
559
伝・欽明天皇勅願
応神天皇陵に隣接し、源頼朝をはじめとする歴代将軍や武家の崇敬を集め、八幡信仰が武家社会へ浸透する拠点となった。
725
伝
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社。古くから皇室の崇敬を受け、神託を通じて中央政界とも深く関わりながら、八幡信仰の拠り所として繁栄した。
726
伝
726年創建。筥崎宮の元宮であり、遷座後も九州五所別宮の第一社として八幡信仰の拠点的な役割を担い続けた。
802
伝
802年頃、坂上田村麻呂により東北の鎮守府へ勧進された、八幡信仰の北限を示す主要分社。
859
貞観元年
武神として源氏の崇敬を集め、その広がりとともに各地へ分霊が勧請された。
1063
康平6年
源頼朝が鎌倉に遷座し幕府の中枢を整備したことで、武家の崇敬を集め関東における八幡信仰の拠点となった。
※ 系譜・年代は代表的な伝承にもとづく図示です。
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情報最終確認日: 2026-08-27 出典: Wikipedia・Wikidata・国土地理院・各社公式サイト等