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武内宿禰

たけのうちのすくね
歴史上の人物の神格化

武内宿禰(たけのうちのすくね)は、記紀に伝わる古代日本の人物です。『日本書紀』では景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたとされる伝説上の忠臣で、「宿禰」は尊称、名は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされます。神功皇后のかたわらで神託を受け、幼い応神天皇を抱いて難を逃れたと伝えられることから、八幡宮では応神天皇に仕えた臣として境内社などに祀られてきました。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされます。

武内宿禰の基本情報

5代の天皇に仕えたと伝わる忠臣で、多くの氏族が祖と仰ぎました。神として社の主祭神になる形と、八幡宮の境内に高良社として祀られる形の両方があります。

別の表記
建内宿禰/建内足尼/竹内宿禰
『古事記』では建内宿禰
読み
たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね
仕えた天皇
景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代
『古事記』では成務から仁徳の4代
祖とされる氏族
紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏ほか
『古事記』は後裔27氏を挙げる
主な神社
気比神宮/宇倍神社/高良大社
越前国一宮・因幡国一宮・筑後国一宮

武内宿禰の系譜

『古事記』は後裔27氏を挙げますが、当サイトのマスタは武内宿禰自身の血縁を裏づけていないため、系図は示していません。

血縁の記録は未確認です(マスタで裏の取れた続柄のみ図示しています)。

忠臣の理想像として語られた人

武内宿禰の伝承には、歴代の大王に仕えた忠臣、たいへんな長寿の人物、神託をも行う人物という特徴が指摘されます。とくに大臣を出した葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏の4氏が共通の祖とすることから、そこには大臣の理想像が描かれているという指摘があります。忠臣とされたことから、明治22年発行の改造壹圓券をはじめ5種類の日本銀行券の肖像にも採用されました。

高良社として八幡宮の境内に

筑後国一宮の高良大社では、祭神の高良玉垂命が中世以降に八幡神第一の伴神とされ、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されました。その結果、石清水八幡宮をはじめ全国の八幡宮・八幡社で、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰を祀る例が広く見られます。

幼い応神天皇を抱いて逃れる

『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠征の途上で崩じると、武内宿禰は神功皇后とともに喪を秘し、天皇の遺骸を海路で運んで殯を行ったと伝えられます。皇后が神主となって神意を問うたときには琴を弾くよう命じられ、のちに天皇の崩御を聞いて反乱を起こした麛坂皇子・忍熊皇子に対しては、幼い皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至り、武振熊とともに軍を率いて逢坂で忍熊皇子軍を破ったとされます。応神天皇に近侍した臣という伝承が、のちに八幡宮との結びつきを生みました。

武内宿禰を祀る神社(掲載132社のうち9社)

※ 並び順は旧社格(1946年に廃止された近代の格付け)と、総本宮・一宮などの称号にもとづくものです。格の高さがご利益の大きさを表すものではありません。

武内宿禰のよくある質問

武内宿禰は実在の人物ですか?▾
記紀に伝わる伝説上の忠臣で、後世(7世紀後半頃か)に創出された人物とみる説があります。一方で『三国史記』に見える倭人の将軍「于道朱君」に比定して実在とする説も唱えられており、定説はありません。
なぜ八幡宮で祀られているのですか?▾
応神天皇(八幡神と同一視されます)に仕えた臣とされるためです。高良大社の高良玉垂命が八幡神第一の伴神とされ武内宿禰に比定されたことから、八幡宮の境内社「高良社」として祀られる例が広まりました。
何歳まで生きたと伝えられていますか?▾
文献によって異なり、『公卿補任』は295歳、『水鏡』は280歳、『帝王編年記』は一説に312歳、『宋史』日本伝は307歳とします。『因幡国風土記』逸文では360余歳で因幡国に下ったとされます。
どこの神社の祭神になっていますか?▾
気比神宮(福井県敦賀市)・宇倍神社(鳥取県鳥取市)・高良大社(福岡県久留米市)・高麗神社(埼玉県日高市)などで祀られています。
  • 生没年・年齢は記紀および後世の文献による伝承で、実年代を示すものではありません。
  • 実在した人物かどうかについては説が分かれており、当サイトはいずれかの説を採る立場を取りません。
  • 墓の位置は記紀に記載がなく不詳です。奈良県御所市の室宮山古墳を武内宿禰の墓とする伝がありますが、近年は葛城襲津彦の墓とする説が有力とされます。
最終確認日:2026-08-27