幼い応神天皇を抱いて逃れる
『日本書紀』によれば、仲哀天皇が遠征の途上で崩じると、武内宿禰は神功皇后とともに喪を秘し、天皇の遺骸を海路で運んで殯を行ったと伝えられます。皇后が神主となって神意を問うたときには琴を弾くよう命じられ、のちに天皇の崩御を聞いて反乱を起こした麛坂皇子・忍熊皇子に対しては、幼い皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至り、武振熊とともに軍を率いて逢坂で忍熊皇子軍を破ったとされます。応神天皇に近侍した臣という伝承が、のちに八幡宮との結びつきを生みました。
武内宿禰(たけのうちのすくね)は、記紀に伝わる古代日本の人物です。『日本書紀』では景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたとされる伝説上の忠臣で、「宿禰」は尊称、名は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされます。神功皇后のかたわらで神託を受け、幼い応神天皇を抱いて難を逃れたと伝えられることから、八幡宮では応神天皇に仕えた臣として境内社などに祀られてきました。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされます。
5代の天皇に仕えたと伝わる忠臣で、多くの氏族が祖と仰ぎました。神として社の主祭神になる形と、八幡宮の境内に高良社として祀られる形の両方があります。
『古事記』は後裔27氏を挙げますが、当サイトのマスタは武内宿禰自身の血縁を裏づけていないため、系図は示していません。
筑後国一宮の高良大社では、祭神の高良玉垂命が中世以降に八幡神第一の伴神とされ、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されました。その結果、石清水八幡宮をはじめ全国の八幡宮・八幡社で、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰を祀る例が広く見られます。
※ 並び順は旧社格(1946年に廃止された近代の格付け)と、総本宮・一宮などの称号にもとづくものです。格の高さがご利益の大きさを表すものではありません。