習合 — 別々の神が、一柱になる
系譜が「分かれる」の図なら、習合はその逆——別々の来歴を持つ存在が、一柱の神さまへ合流していきます。
習合(しゅうごう)とは、別々に信仰されてきた神や仏が、同じ一柱として重ねられていくことです。土地で祀られてきた神が記紀の神と結びつき、神が仏の号を受け、外来の天部が海の女神と同一視される——八幡神が「八幡大菩薩」と呼ばれ、菅原道真公が「天神さま」になったのも、この重なりの歴史です。明治の神仏分離で神と仏は公には分けられましたが、社名や祭り、扁額のなかに重なりの痕跡はいまも残っています。やしろめぐりでは、柱ごとの合流のようすを祭神ページの「なりたち」の図に描いています。
はじまりは「となりのくにのかみ」
仏教が伝わったころ、仏は「蕃神(となりのくにのかみ)」——よその国からきた神さまとして受けとめられていたと考えられています。552年(538年説もあります)に百済から仏像が伝えられ、受け入れをめぐる争いを経ながらも、仏は日本の神々と同じ世界の住人になっていきました。
奈良時代には、神社のかたわらに神宮寺という寺が建てられるようになります。神もまた人と同じように苦しみ、仏の救いを求めている——そう考えられたためです。寺の側にも守り神を祀る鎮守社が置かれました。東大寺が、大仏造立に協力した宇佐の八幡神を勧請して鎮守とした手向山八幡宮は、その代表例です。
本地垂迹 — 神は仏の仮の姿とされた
十世紀ごろには「本地垂迹説」が成立します。仏や菩薩が人々を救うため、仮に神の姿をとってこの地に現れた、とする考え方です。「権現」という神号の「権」は「仮の」という意味で、この説から生まれました。天照大御神の本地は大日如来、八幡神の本地は阿弥陀如来——そうした対応づけが各地で語られるようになります。
神に菩薩の号を贈る動きも広がりました。最初に菩薩と名乗ったのは八幡神とされ、明治維新まで「八幡大菩薩」と号しています。
明治に、引き剥がされた
千年あまり続いた重なりは、明治のはじめに公的に解かれます。新政府は神仏分離令(神仏判然令)と総称される一連の通達を出し、神社と寺院を分け、神社に仕えていた僧侶に還俗を命じ、御神体を仏像とすることも禁じました。これをきっかけに各地で廃仏毀釈が起こり、寺や仏像が壊される事態にもなりました。
それでも痕跡は消えていません。石清水八幡宮の放生会が「石清水祭」と名を改めたように、祭りの名、社号の移り変わり、境内の建物のなかに、神と仏がともにいた時代の記憶が残っています。
なりたちを図でたどれる神さま集まる
習合の読み物(系統ページ)
- 本地仏の対応(どの神の本地をどの仏とするか)は宗派・寺社によって異なり、諸説があります。