⛩ やしろめぐりyashiromeguri
三本の木を左から順に並べた千代紙風の図案。左は葉を落とした桜、中央は丘の上に傾いて降りた松、右は社殿の前で花をつけた白梅。上を梅の花が弧を描いて左から右へ渡る。

とびうめ

飛梅

伝播型伝えが残る社 6社

飛梅は、太宰府天満宮の本殿前に立つ白梅の名です。都を発つ菅原道真が庭の梅に歌を詠みかけ、その梅が主を慕って一夜のうちに大宰府まで飛んだ——天神信仰のなかでもよく知られたこの話は、一本の木の物語として語られます。ところが各地の社をたどると、この伝説はひとつの場所に収まっていません。飛び立った地とされる社があり、飛び着いた木が現に立つ社があり、その木から株が分かれたと伝える社があり、さらに同じ話が別の土地でも語られている社があります。木そのものが分かれて広がった道すじと、話のほうが渡っていった道すじが、重なって残っているかたちです。歌と伝説の筋そのものは天神信仰のページに譲り、ここではその伝説が、どこに何を残したのかを並べます。

飛び立った地と、飛び着いた地

この伝説には出発点と到達点があります。そしてその両方が、別々の社として残っています。都の側には道真の邸宅の跡と伝えられる菅大臣神社があり、筑紫の側には太宰府天満宮の本殿前に木そのものが立っています。ひとつの話でありながら、始まりと終わりが違う土地の違う社に受け止められている点が、この伝説の残り方の特徴です。

到達した側でも、木の居場所は動いています。飛梅は元来、道真の配所の跡に建てられた榎社の境内にあり、天満宮が造営されたときに本殿前へ移されたと伝えられます。いまは本殿に向かって右側に立ち、根本は三株からなり、境内に植えられた梅のなかではいちばん先に咲き始めるとされます。

歌そのものと、飛んだという伝説の筋は太宰府天満宮のページと天神信仰のページにまとめています。梅がやがて神紋になっていった経緯は北野天満宮のページにあります。このページで見るのは、その話がどこに分かれて残ったかのほうです。

木そのものが、株に分かれて各地へ

飛梅の広がり方には、物として分かれていった道すじがあります。後代、道真を祭神とする社に株分けされたものが各地に現存すると伝えられます。亀戸天神社は、太宰府の飛梅から採れた実生を勧請したと伝え、飛梅の木で彫った天神像を祀るとも伝えています。伝説が言葉として伝わったのではなく、木そのものが分かれて運ばれた、という筋道です。

この「運ばれた」という見方は、伝説の側にも影を落としています。飛梅伝説の現実的な経緯として、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が株分けの苗木を植えたものとする説や、道真を慕った伊勢国度会郡の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際に旧邸から持ち出した苗木を献じたものとする説が伝えられています。飛んだという話と、人が運んだという話が、同じ木について並んで残っています。

株が分かれて広がるという形は、放生会のように行事が伝わっていったのとも、道中の伝えのように土地ごとに別のものが結びついたのとも違います。分かれていったのが物である以上、たどれるのは木の系譜であって、話の系譜ではありません。放生会の物語と読み比べると、伝わり方の違いがはっきりします。

花をつけた大きな梅の木と、根を藁で包んだ同じ木の若木三本を並べた千代紙風の図案
伝説が言葉として伝わったのではなく、木そのものが分かれて運ばれたと伝えられます。特定の神社の梅を描いたものではありません。

同じ話が、別の土地でも語られる

もうひとつ、話のほうが渡っていった道すじがあります。道真を慕った梅が飛来したと言い伝えられ、道真が自ら梅を植えたとも考えられるこの伝説は、他の地方にも見られると記録されており、道明寺天満宮や防府天満宮がその例として挙げられます。太宰府から株が分かれたという伝えとは別に、「ここにも飛梅の話がある」という形で土地に根づいたものです。

興味深いのは、この言い方のなかで飛来と手植えが並んでいることです。梅が飛んできたという話と、道真が自分の手で植えたという話は、本来なら別の出来事のはずですが、伝説としては同じ枠のなかで語られています。木がそこにある理由として、どちらの説明も成り立ってしまう、ということでもあります。

防府天満宮は、大宰府へ下る道中の宿泊地とも伝える社です。道中の伝えについては道真が大宰府へ下る道中の物語で扱っています。ひとつの社が複数の伝えを重ねて持っていることは珍しくなく、この物語の一覧と道中の一覧には、同じ社が別の理由で並ぶことになります。

飛んだのは、梅だけではなかった

伝説をもとの形で読むと、道真が別れを惜しんだ庭木は梅・桜・松の三本です。桜は主が去ることを知って葉を落とし、枯れてしまったと語られます。梅と松は後を追って空を飛びましたが、松は途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(現在の神戸市須磨区板宿町)の近くの丘に降りて根を下ろしました。この丘は後世「飛松岡」と呼ばれるようになり、飛松伝説として伝えられています。大宰府まで飛び通したのは、梅だけでした。

能楽ではこの筋がさらに続きます。桜が枯れたという報せを配所で聞いた道真が「梅は飛び桜は枯るる世の中に 何とて松のつれなかるらん」と詠むと、つれないと咎められた松が、今度は梅の後を追って太宰府へやってきます。これを老松(追い松・生い松)といい、飛び梅(紅梅殿)と老松は、ともに太宰府天満宮の末社の神として祀られています。

一本の木の話に見えて、残り方を並べると三本の木の話になります。梅は木として太宰府に立ち、松は神戸の丘の名と太宰府の末社に残り、桜は枯れたという語られ方で残りました。どれも別の形をとっていますが、三本とも都の庭から始まっている点は同じです。

たどった道

  1. 都を発つ901年

    大宰府へ左遷されることとなった道真が、日ごろから愛でてきた梅・桜・松との別れを惜しみ、梅の木に語りかけるように歌を詠んだと伝えられます。

  2. 伝説が文献に現れる1219年(承久元年)

    国宝「北野天神縁起絵巻〈承久本〉」の詞書で、「こちふかば」の歌の段の結びに、この歌ゆえに梅が筑紫へ飛んで参ったという一文が初めて加筆されています。ここに飛梅伝説成立の発端が見えるとされます。

  3. 梅の枝を持つ姿へ15世紀(室町時代)

    怨霊や祟り神として始まった天神信仰は、渡唐天神の信仰を経て穏やかな姿へと変わり、菅公は手に梅の枝を持つ学問の神として描かれるようになります。禅僧らによって梅花の愛好説が強調されていったとみられます。

  4. 株が各地へ分かれる

    後代、道真を祭神とする神社に株分けされたものが各地に現存すると伝えられます。実生を勧請したと伝える社や、飛梅の木で彫った神像を祀ると伝える社があります。

  5. いま

    飛梅は太宰府天満宮の本殿前に立ち、境内の梅のなかでいちばん先に咲き始めるとされます。根本は三株からなり、樹齢は1000年を超えるとされます。

飛梅の伝えが残る神社

飛び着いた地1社

伝説の中核1社

派生(木が分かれた)1社

飛び立った地1社

伝説が伝わる地2社

注記

  • 一覧に並ぶのは、各社が社伝・言い伝えとして記しているものです。梅が飛んだことを示す史料ではありません。
  • 飛梅伝説が文献に現れるのは承久本(1219年)の詞書とされ、道真が没した903年から300年余りのちにあたります。伝説そのものは、その間に育っていったものと考えられます。
  • 飛んだことの現実的な経緯として、人が苗木を運んだとする説も伝えられています。どちらが正しいかを決められる史料はありません。
  • 樹齢1000年を超えるという伝えは、樹齢が測定によって確定していることを意味しません。
  • 道真の生涯と、大宰府へ下る道中の伝えは、それぞれ別のページで扱っています。

出典

情報最終確認日: 2026-08-27 / 社伝・伝承は、歴史資料で確定した事実とは層の異なる話として扱っています。 各社の記述は上記の出典によります。